私と潰瘍性大腸炎とギターと(1)
はじめに
こんにちは!6つの診療科に通う男、作業療法士のコージです!
私は12歳の時に潰瘍性大腸炎という難病を発症しました。それから20年近く治療を続けています。
現在は潰瘍性大腸炎だけではなく、複数の病気を発症し、6つの診療科にて治療を行っています。
詳しくはプロフィールをご参照ください。
そんな私が潰瘍性大腸炎を発症し、ギターと、音楽と出会うまでを自分で振り返りながら書いてみたいと思います。
※全てノンフィクションでいきます!
潰瘍性大腸炎
どんな病気?
下痢(便が軟らかくなって、回数が増えること)や血便が認められます。痙攣性または持続的な腹痛を伴うこともあります。重症になると、発熱、体重減少、貧血などの全身の症状が起こります。また、腸管以外の合併症として、皮膚の症状、関節や眼の症状が出現することもあります。
引用:難病情報センター
たかが腹痛だと思われがちですが、地獄の苦しみです。
ひどい時には一日何十回もトイレに行かなければなりません。電車に乗っていようが授業中だろうが、何をしていようが何度も腹痛に襲われトイレに行かねばなりません。
自分でコントロールすることができないのです。症状がひどい時には外出することが困難になります。それどころか寝たきりの状態になることさえあります。
発症
発症したのは12歳、小学6年生の時でした。
小学6年生の2月、インフルエンザで寝込んでいた時のことです。真夜中にインフルエンザの症状とは異なる、激しい腹痛が襲ってきたのです。
夜間に病院に駆け込みましたが、インフルエンザのため複数の病院から受診することを拒否されました。
やっとの思いで若干遠い市立病院にたどり着き、受診をすると「虫垂炎」と診断されます。
そのまま緊急で手術をすることになりました。
しかし、手術後も状態は全くよくならず「絶食」が始まります。水分もダメです。これから二カ月間点滴のみで飲まず食わずの生活を送ることになりました。
入院して治療を行いましたが、症状が全く改善しないため、二週間後市立病院から大学病院へと転院するとになります。
そして、大学病院で「潰瘍性大腸炎」との診断がつけられました。潰瘍性大腸炎は原因不明の病気ですが、細菌感染やウイルス感染後に自己免疫異常が起こり発症するケースもあるそうです。
中学生
将来の夢
私は小学一年生からサッカーを続けており、将来の夢はサッカー選手になることでした。小学生の頃は県大会で何度も優勝し、本気でサッカー選手になりたいと考えていました。
レギュラーでポジションは右MF、スルーパスやセンタリングをあげることが私の武器です。
スポ少では私のスルーパスやセンタリングをきっかけに、面白いぐらいに得点が決まりました。
私の目標は天使のパスを繰り出すと言われた元日本代表の小野伸二です。
小野伸二のようなMFになり、日本代表としてワールドカップに出場して優勝する、それが私の夢だったのです。
学校生活
3月の小学校卒業式は外出許可を貰い、点滴をしながら出席しました。4月の中学校入学式の直前に退院し、私は中学生になります。
中学生になった私はもちろんサッカー部に入りました。
しかし、潰瘍性大腸炎という病気は甘くありませんでした。
部活どころか学校に通うことすらままならないのです。毎朝何度もトイレに行き、学校には毎日遅刻です。学校で授業を受けている時も腹痛が襲い、何度も授業中に手を挙げてトイレに行きました。
授業中にトイレに行くことの恥ずかしさといったらもう…毎日が地獄でした。
いじめ
ステロイドを長期使用したことにより、顔はパンパンにむくみました。これを満月様変貌(ムーンフェイス)といいます。
また、ステロイドを長期使用したことが原因となり、MRSA皮膚炎に感染してしまいました。MRSAとは抗生物質が効かない厄介な病気です。
特に顔面部がひどく、顔中が膿と血だらけになりました。週に3回皮膚科に通院し、顔を切開して膿を排出してから注射を行いました。
死ぬほど痛かったですが、思春期の私にとって「顔を綺麗にしたい」といった気持ちの方が強かったです。
なぜなら私はいじめを受けていたからです。
顔面がパンパンにむくみ、膿と血だらけの顔を「気持ち悪い」と毎日言われました。「気持ち悪い」だけではなく、「死ね」「学校来るな」などと毎日言われ続けていました。
学校に行くと机にイタズラされていたり、内履きを隠されたりすることも頻繁にありました。
私とギター
ギターとの出会い
通院や体調不良のためサッカー部に顔を出すことも少なくなります。私は日々塞ぎこんでいきました。学校に行けばいじめを受け、大好きなサッカーをすることもできません。
そんな私を見かねたのでしょう。叔父がアコースティックギターを弾くことが得意ということもあり、両親から私にアコースティックギターと教則本が買い与えられたのです。
サッカー一筋だった私には音楽や歌というものにはさっぱり興味がありませんでした。半ば無理やりといった形でギターを押し付けられました。
サッカー以外にゲームをするぐらいしか趣味のなかった私は、まぁ暇つぶしにやってみるか…といった軽い気持ちでギターを弾いてみることにしたのです。
教則本を読みながら弾き語りにチャレンジしてみることにしました。教則本は坂本九の「見上げてごらん夜の星を」や平井堅の「大きな古時計」などのテンポがゆっくりで簡単に弾ける曲から始まっていました。
気が付くと私は音楽に、ギターを弾くことにのめり込んでいったのです。
学校に行くことは相変わらず苦痛でしたが、帰ってからギターを弾くことが私の大きな楽しみになりました。
左手の皮は剥け、指先が血だらけになっても毎日練習を続けるほどでした。左手の痛みよりもギターを弾くことの楽しさが勝っていたのです。
タッチ
いつの間にか初心者向けの教則本では満足できなくなりました。そして「アコースティックギター弾き語り曲集」を二冊買いました。
その中からまずは簡単なコードで弾くことができる、岩崎良美の「タッチ」を選択しました。
しかし、全然上手く弾くことができません。初心者向けの教則本に載っていた曲はテンポがゆっくりの曲ばかりであったため、タッチのテンポについてくことができないのです。
何度もコードチェンジでつまづきました。歌う以前に一曲通して弾くことすら難しく感じられました。
不思議なことに、諦めようと思ったことは一度もありません。今日はどこまで弾けるようになるだろうか?そう思うと授業中居ても立っても居られなかったです。
毎日練習を続けていたら、ある日突然「タッチ」を一曲通して弾きながら歌うことができました。めちゃくちゃ下手くそな演奏に、下手くそな歌だったと思います。
弾き終わると涙が溢れ出てきました。
あだち充原作のタッチでは、双子の弟和也が地区予選決勝に向かう途中で交通事故にあって亡くなってしまいます。
「俺生きてんじゃん!」子供ながらにそう思いました。
なぜだかそう思ったら涙が止まらないのです。ギターを片手にいつまでも泣き続けました。
この体ではサッカー選手になれないかもしれない。でも自分にはギターがある。この体でもギターを弾くことはできる。
ミュージシャンになりたい!ギタリストになりたい!
そう決意したのはこの時でした。
終わりに
音楽との出会い、ギターとの出会いに私は本当に助けられました。
学校は休みがちで、遅刻や早退も繰り返していましたが、完全に不登校になることはありませんでした。
いじめは相変わらずでしたが、「ミュージシャンになって絶対に見返してやる」そう思いながら学校生活を送っていると周りの反応も少しずつ変わってきました。
学校で私がギターを弾くことができると知れ渡ると、「ギター弾くとこ見せて!」と私の家に遊びに来てくれる友達も増えました。
そして私は中学三年生になると、サッカー部の副部長になります。
三年間一度もレギュラーになることはできませんでしたが、裏方として部をサポートしました。
音楽との出会い、ギターとの出会いが塞ぎこんでいた私を変えてくれたのです。
この後私は私立の進学校に入学することになります。しかし、どうしても音楽をやりたいとの思いから通信性の高校に編入し、音楽学校(ミュージシャン養成校)に入学することになるのです。
長くなってきたのでその話は次回にさせて頂きたいと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました!
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